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うみかぜ紀行

レモンの島にさそわれて

玉岡かおる・文

新車を買ってウキウキな頃は、しまなみ海道ほど心弾む道はない。何と言っても空がきれい、海がきれい、夜また満天の星がきれい。私の愛車は屋根の開くコンバーチブルなので、瀬戸内の風や空気、湿度まで、全部味わえるから、ますます橋を渡るのが楽しいのだ。

もちろんただ走るだけじゃなく、標識に惹かれて高速道路を途中下車、というのも楽しみの一つ。この日もドライブマップで目にした「瀬戸内に浮かぶレモンの島」に寄り道をすることにした。それは尾道から18㎞、しまなみ海道のほぼ中央にある生口島だ。

なにしろ島なので陸地の半分が急斜面。しぜん、日当たりがよく、柑橘類を育てるのに適し、レモンの生産量は日本一という。

とはいえ国内で消費されるのはほとんど安価なアメリカ産レモンで、国産レモンはわずか5%以下。価格競争ではかなわないためだ。

そこで島の農家が作ったのは、値段には代えられない、安心して皮ごと食べられる安全なレモン。香りの良さが特徴という。……蘊蓄はこのくらいにして、さあ実際に行ってみよう、レモンの島へ。

季節は初冬のよく晴れたドライブ日和。生口島で降りると、整備された島の道は混雑もなく、ゆっくり走るのもまた楽し。やがてフロントガラス越しにうねうね続く緑の樹木が見えてくる。穏やかな瀬戸内の太陽がふりそそぐ斜面を覆う、つややかな緑また緑。

と、生い茂る葉と葉の間、枝々に、文字通りたわわに実るものがある。何だろう、黄色い果実。―みかん? いや違う、ああレモンだ、レモン、レモン、どれもレモンの実る木なのだった。

思わず車を路肩に停めて眺め入った。それは山じゅうレモンが実る風景。間違いなく、ここは瀬戸内に浮かぶレモンの島だった。

果実が実り、木は緑。光は明るく空は晴れ、はるか遠くに海も青くぬるんで見える。なんとゆたかな風景だろう。

寄り道ついでの大三島では、白くペイントされた外壁に青い窓枠の、気になるお店をみつけた。まさに「リモーネ」、イタリア語でレモン。知る人ぞ知る存在なのか、サイクリングの人たちが自転車を降り、何やらおみやげを買って出てくる。私も車を停めて客になった。そこは有機栽培のレモン農家が経営する店で、自園で穫れたレモンを醸造したリモンチェッロやリキュール類を売っている。なるほどすぐれたレモンは加工しない手はない。日々ここの風に吹かれ陽光を浴びて育った果実が、人に新しい発想をもたらしたのだろう。

ふと、梶井基次郎の『檸檬』を思い出す。「一体私はあの檸檬が好きだ」などとカッコつけ、衝動的にレモンを一個だけ買ったと思うと、それを爆弾のように書店の本の上に置き、気鬱を晴らす。なんとも内向きな物語だが、もしも彼がこの島を訪れ木々のレモンを見たならどうしただろう。きっと物語は一気に晴れやかにトーンを変えるにちがいない。初夏には花が咲き、夏には青い果実が実るレモンの島。季節を変えてまた来よう。心まですっきりレモンの香りにリフレッシュされ、またドライブにもどる私の前に、島の道はゆるやかにくねっている。

挿絵

PROFILE

玉岡かおる
作家。兵庫県在住。1989年、神戸文学賞受賞作『夢食い魚のブルー・グッドバイ』(新潮社)でデビュー。著書多数の中、『お家さん』(新潮社)で第25回織田作之助賞。文筆のかたわら、テレビコメンテーター、ラジオパーソナリティなどでも活躍。