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せとうち美術館紀行 第6回 平山郁夫美術館

平山郁夫美術館 日本画の巨星、平山郁夫の足跡を俯瞰できる美術館

瀬戸内海に浮かぶ生口島は、広島県と愛媛県を結ぶしまなみ海道のほぼ中央にあり、日本画家・平山郁夫が生まれ、幼少期を過ごした地です。ここに建てられた「平山郁夫美術館」は、画家として、一人の人間として、平山郁夫の歩みをたどることができる美術館です。貴重な幼少年時代の作品や、スケッチ、下絵なども展示され、平山芸術の原点や制作過程に接しながら、その魅力をあますところなく楽しむことができます。

ミュージアムショップ

ミュージアムショップ
館内中央にあるショップでは、複製画や展覧会の図録、平山郁夫作品をモチーフにした商品を多数販売しています。

喫茶

喫茶
瀬戸田産の旬の柑橘を使ったジュースやケーキを味わえます。日本庭園を眺めながら、優雅なひとときが過ごせます。

平山郁夫ゆかりの資料

平山郁夫ゆかりの資料
平山郁夫の人となりや歩みがわかる資料が数多く展示されています。

平山郁夫美術館 詳細はこちら

平山郁夫美術館に関しての対談1

■出席者

鳴門教育大学大学院教授  山木朝彦さん(以下山木)
平山郁夫美術館館長  平山助成さん(以下館長)
同館学芸員  別府一道さん(以下別府)
同館学芸員  成瀬智美さん(以下成瀬)

■対談日

2011年1月24日(月)

ゆったりと鑑賞できる和風の設計

山木:
こちらの美術館に初めてうかがったのですが、入口からアットホームな感じがして、どこか個人の瀟洒なお宅に訪問させていただいているような感じがしました。この雰囲気を醸し出す元々のコンセプトはどこからきているのですか。

別府:
これは平山先生ご自身のお考えが強いかと思います。建物を設計された先生はもともと和風の設計がお得意で、平山先生のご自宅も設計されました。代表作は両国国技館です。おそらく先生とお話をされて作られたのだと思います。

山木:
その建築家のお名前は?

別府:
今里隆さんです。

山木:
気持ちが安らぐ和風建築のこの美術館に入ると、すぐに大きな広間が広がりますよね。あの空間も魅力的です。こうしたゆったりとした感じが平山郁夫美術館の基本的なコンセプトのような気がしますね。

館長:
私は設計段階のときにはこの美術館にタッチしていなかったのですが、兄から聞いた話だと、「ゆったりつくってほしい」という希望があったそうです。平成7年の設計で、まだ当時はバリアフリーの思想が今ほど浸透していない時代でしたが、フラットなつくりは、どなたにも展示が見やすい設計です。天井はほとんどのところで高さが5メートルほど確保されていて、圧迫感がなく、廊下やロビーなども広めにとってあります。展示室も小・中・大と大きさが異なり変化があります。

山木:
本格的な日本庭園も大きくて心地よいのですが、これも平山画伯の気持ちが反映されているのでしょうか。

館長:
日本庭園の設計者が、瀬戸田生まれの兄がいつも目にしている風景をイメージしてつくったと聞いています。美術館のあるこの島から見える通称“ひょうたん島”を中心に、瀬戸内海の島々を築山で示し、砂利が敷いてあるところが海を表しています。全体として枯山水をイメージしているようです。外に出れば同じ風景を実景で見ることができますよ。

しまなみ海道全線開通時は1年間に76万人が来館

山木:
こちらの美術館が開館したのは何年ですか。

別府:
平成9年(1997年)です。

山木:
その頃はしまなみ海道は開通していましたか。

別府:
しまなみ海道の全線開通は1999年です。でも、この島にはすでに橋がかかっていました。広島県と愛媛県を結ぶ多々羅大橋と、大島と愛媛県今治市を結ぶ来島海峡大橋の2橋の開通で全線開通となりましたが、美術館オープン時は、まだ、しまなみ海道が全線開通していない段階です。

山木:
この美術館に来るには、本州側と四国側とどちらからが便利だったのですか。

別府:
道路を使っては本州側からしか来られませんでした。

山木:
なるほど。全線開通したときは大変な反響があったとうかがっていますが、その当時の印象を教えてください。

館長:
1年間で76万人が来館されました。年中無休ですので平均すると1日2000人前後。この美術館に2000人が入られますとどこか雑踏を感じます(笑い)。

山木:
かえって今は落ち着いて見られる感じですね(笑い)。

館長:
はい。当時は人の頭ばかり見ている感じでした。(笑い)。

別府:
しまなみ海道が開通したときは開館してすでに2年が経っていたので、あえて入場制限はしませんでした。7000人が来館された日でも制限していません。だから数珠つなぎで、人の後ろ越しに作品を見る感じだったと思います。

山木:
今もそうでしょうが、その頃は開通したしまなみ海道も見てみたいということで全国からたくさんの人がいらしたのでしょうね。そして、平山郁夫画伯の知名度の高さ、愛好支持者の多さを物語っていますよね。

テーマ別に作品を展示する理由

山木:
ところで、先ほど館長が「兄」とおっしゃいましたが、館長は平山郁夫画伯のご実弟でいらっしゃるのですね。初代館長はどなたですか?

館長:
私の長兄の吉雄です。開館した初年度から6年間、館長を務めていました。その後、私が引き継いでやっております。

山木:
そうですか。一人の個人の作家を検証し、広げてみせるときに、ご家族の方々がそれを支えるというのは非常に望ましいかたちではないでしょうか。この対談の中で、ぜひ館長の記憶に残っているお兄さん、平山郁夫画伯の姿をお聞かせください。まず最初に伺いたいことなのですが、開館当時、平山画伯はこの美術館に来られてどのような印象をお持ちだったのでしょうか。

館長:
「いい美術館ができた」と感謝していたと聞いています。芸術家というものは、育った環境に大きく左右されるとわたしは思います。物心がついた頃からどういうものを見てきたか、どういう所で生まれて今があるのか、ということが大きな意味を持ちます。兄もそういう自分の故郷とのかかわりを「多くの人に見せてほしい」と常に言っておりました。

山木:
展示作品はこの地域に密着した風景が多いですね。こちらの美術館の収蔵品に関しては、とりわけこの土地の風景や人々を描いたものが多い印象を受けました。収集して展示されるときに意識されているのでしょうか。

別府:
今はたまたま初期作品を紹介する企画展だからその印象は強いと思います。
でも実際のところ来館者すべての期待に応えるというのは難しいことです。先ほどしまなみ海道が開通したときの話が出ていましたが、その年は開通に合わせて春から秋までずっと平山郁夫先生が描き下ろされた「しまなみ海道五十三次」、実際には63点作品あるのですが、その新作を展示していました。するとお客さまから、「平山郁夫美術館なのにラクダが一頭もいない」「平山郁夫と言ったらシルクロードでしょう」とずいぶん言われました。お客さまがイメージしている平山郁夫と、せとうちの風景を描いている平山郁夫が必ずしも一致しなかったのですね。
だけど、この地が原点なのです。特に若い頃はここでたくさん描いていたので、ここから始まっているということを見せなければいけない。しかしお客さまは、平山先生が30代後半から海外に出て描くようになった絵を求めていらっしゃる。そういうものも出さなければいけません。ですから今年は、瀬戸内とシルクロードという両者を繋ぐテーマで組み立てる展覧会を企画し作品を展示しています。

山木:
なるほど。そういうふうに複眼的に視野を広げていかないと、一人の作家の歩みというのは見えないでしょうね。

別府:
そうですね。個人美術館だと単純に時系列で並べて、何年から何年まではこうしていて、何々の時代ということで、そこからがらりと変わってしまうような展示が多いのではないでしょうか。
だけど平山先生は、生まれ育った瀬戸内の風景を描いているもの、シルクロードを描いているもの、しまなみ海道も含めて日本の美を描いているもの、すべて違っているように見えても、実は驚くほどテーマが一貫している。だから逆に時系列ではない切り口のほうがわかりやすいのです。
技法的なものもわりと早い時期に完成して、それを途中で変えない。「私は日本画家ですから」と、若い頃はものすごく変わった技法を試されていますが、いったん「これだ」と思ったら変えていない。
いろんな作家の先生を見ていたら、何年頃にこういうことがあって劇的に絵が変わったとか、この年代から使う色が変わったということがありますが、平山先生の場合はそういうことがほとんどありません。
しかし、生涯にわたっていろいろなことに興味を抱いた画家です。ですから、どうしてもテーマ別に区切って展示する見せ方に落ち着きます。決して複眼的に見ているというわけではなく、むしろ単眼的に見ているのですが、先生がやってきたことを紹介しようと思うと、結果的にこういう展示方法になります。

山木:
たしかに、いろいろなテーマに挑んだ画家ですが、平山郁夫が追究しているものの根底には共通の味わいがあり、普遍的な課題があったような気がします。私見を申し上げると、人間の息吹といいますか、市井の人々の、人間の息づかいみたいなものを風景の中に忍び込ませる平山画伯の画風には、ヒューマニスティックな精神が息づいているのではないかと思います。若い頃の作風からその傾向がはっきりと読み取れます。

家族や近隣の人とのかかわり

山木:
展示されている絵を見ると、家族をテーマにした人物画が多いですね。その中には館長がまだ小学生の頃の絵もあります。平山画伯の人間に対して抱く好奇心や興味、そして、どこか人なつこい子どもだったのではないかと思わせる印象を受けたのですが、実際はどうでしたか。平山画伯の人となりを教えてください。

館長:
風景はすぐに描けますが、人物画はモデルになってくれる人に了解を得ずに描くことはできません。「こういうポーズで」と、いろいろな注文をつけるのですが、描かれるみなさんは喜んでやってくださっていたと思います。
よく兄は、「自分の描きたい人は絵になる人である」と言っていました。それがどういう人かは、スケッチから類推するしかありませんが、あまり美男美女ではない気がします。

山木:
テーマとしては、お兄さんや、とりわけ3人の妹さんと館長など、ご兄弟の絵が多いですね。実際にどのようにモデルを頼まれたのですか。印象に残っていることはありますか。

館長:
近所の人や兄弟は一番身近でしたから、モデルになったことが多いですね。当時は兄が絵を描くときには、モデルになるのは当然だと感じていました。

山木:
お姉さんはまだ遊びたい時期でしょう? どうおっしゃっていましたか。

館長:
ぶつぶつ言っていましたね(笑い)。
でも、承諾していました(笑い)。

山木:
そうですか。今となると大変よい思い出になりましたね。

館長:
そうですね。(平山郁夫の)モデルになる経験は、まずないですからね。

大伯父・清水南山から多大な影響を受ける

山木:
平山家には平山郁夫氏のお母さまの家系に、帝室技芸員をなさり、東京美術学校の教授もしていた清水南山さんがいらっしゃいましたね。平山画伯が美術の道に進む大きな方向付けも、清水南山さんがされたのですか。

館長:
兄はもともと絵は好きで描いていましたが、終戦前後の一番混乱していた時期ですから、画家を最初から目指していたわけではなかったようです。ただ修道中学校から忠海中学校に転校した際に清水南山さんの実家から通うことになったものですから、そのときにいろんなことを教えてもらったようです。でも、絵のことは一切言われなかったそうです。

山木:
そうなのですか。

館長:
美術に対する心構えといいますか、当時の校長であった岡倉天心先生や身近にいた超一流の人たちがどういうことをしていたのかということを間接的に聞かせてくれたようです。

山木:
いわば心構えを教えてあげていたのですね。

館長:
はい。ただ絵描きになるための教えではなく、学び方や制作の仕方をしっかり兄に教えてくれた。受験直前になって、「美術学校を受けろ」と言われたようです。

山木:
それも決定的な一つの方向付けですね。

館長:
それが4年生の時です。もしダメなら自分の好きな道を5年生の時に受け直せばいいのだから、一回受けてみろということですね。
絵の描き方を教えてくれたら美術学校には楽に合格できたのですが、「形にはめるとそこから出られなくなるので自由に描きなさい」ということでしょう。あるいは、兄の絵を実際に見てきて、実技のほうはオーケーだと思ったのかもしれません。
ただし、どういう人がどういうことをやっていたのかという美術への取り組みや、美術学校創設時のことは雑談などで南山から聞いていたようです。

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