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せとうち美術館紀行 第6回 平山郁夫美術館

平山郁夫美術館 日本画の巨星、平山郁夫の足跡を俯瞰できる美術館

平山郁夫美術館に関しての対談2

教養をつけるためにたくさん本を読む

山木:
展示資料の中に「この本を読んだ方がいい」というサジェスチョンを書き連ねたものがありますが、あれは南山さんから聞かれたものを平山画伯が書かれたのですか。

館長:
あれは平山郁夫が実際に読んだもののリストです。美術学校に絵が好きで来ている人や、絵が描きたいと来ている人は、意外と伸び悩んでいる。絵は巧いのに、何を主題で描くかということで行き詰まる。だからまず教養をつけることが大事なのです。

山木:
そうするとあの資料は、平山画伯が読んだものを記録しているのですか。

別府:
はい。読んだものが書いてあります。

山木:
その背景に南山さんのサジェスチョンがあったと考えていいのでしょうか。

別府:
そうですね。

山木:
絵だけでなく、ものすごく視野が広いですね。

館長:
本を読んで視野を広げたということですね。文化的なコンセプトといいますか、文化的な背景に興味を持ったのです。若い頃に徹底的にやっておかないと後から取り組んでもなかなか頭に入らないものですから。

山木:
文化的なテーマに挑むには、たしかに、そういう教養が必要ですね。

別府:
展示してある資料は、事実上は日記です。例えば、「10月17日、歌舞伎座見学」などと書いてあります。

山木:
その中に読書の記録があるのですか。

別府:
はい。読んだものが書いてあります。

山木:
海外の文献も読んで学ばれたのですね。そういうスピリットはどこから生まれたのでしょうか。

館長:
そういう人たちに教わった世代が先生をしていますから、谷信一先生なども「たくさん本を読め」と指導されたのだと思います。その頃の兄は、だいたい月10冊ぐらいのペースで読んでいます。

山木:
すごいですね。

館長:
『たけくらべ』『硫黄島』『赤と黒』、有島武郎、井伏鱒二、谷崎潤一郎・・・

山木:
小説もたくさん読んだということですね。

別府:
小説が多いです。文学やエンターテインメントに対してものすごく熱心で、「お能を見に行った」とか、「映画をいつどこに見に行った」とか、細かく書いてあります。

山木:
文化的なものを貪欲に吸収しようという姿が伺えますね。

文化や宗教に自然と触れられる家庭環境

山木:
もうひとつ平山画伯の特徴的な傾向として、世界的な文化や宗教に関心があり、とりわけ仏教に対して造詣が深くていらっしゃる。このあたりの家庭的な背景はあるのでしょうか。例えば、信心深いお父さん、お母さんであったとか。差し支えない範囲で教えていただけますか。

館長:
父親が仏教に非常に興味があり、勉強もしていました。禅にも興味がありました。朝夕、お経をあげながら先祖供養をし、座禅をしていました。

山木:
平山画伯は、中学1、2年の頃でしょうか、阿弥陀仏の如来像を描いていらっしゃいますね。

別府:
中学4年の時、美術学校に入る前です。

山木:
ああいうテーマをしっかりと見すえて描かれるというのは、当時の子どもとしても、珍しいことだったのではないかと思います。仏教や仏像に対する関心が深かったのかなと思うのですが、どうですか。

別府:
「東京美術学校の入試の時に、本物の文化財クラスのものがモチーフとして置いてあってビックリした」と平山先生がおっしゃっていましたが、そもそもご実家が、文化財クラスのものが普通にある家だったのですよ。

山木:
モチーフとして立派な仏像が選ばれる背景には、そういうことがあるわけですね。ところで、お父様も新聞記者をされていて、文化的な文物に興味がおありだったと思います。どんなご家庭でしたか。

館長:
皆でよく本を読んでいた記憶がありますね。勉強をしろと言われるのではなくて、兄などが勉強していましたから、そういう雰囲気の中で私も育った気がします。

山木:
お母様のほうもそういう文化的なことに興味があるご家系でしたものね。

アメリカから里帰りした「漁夫」の絵

山木:
ところで、今回展示されていた中に、平山画伯のご実家の近隣の漁師の方々を描いた「漁夫」の絵がありました。この絵は何年か前にアメリカから購入されたそうですね。下絵と合わせて展示されていて、地域の生活感をよく表している魅力的な絵だと思うのですが、それにかかわる逸話を少しお聞かせいただけますか。

別府:
ある時、突然アメリカから電話がかかってきたのです。「平山郁夫という人の絵を買ったのだが、そちらはその美術館か」という問い合わせの電話でした。絵の写真を送ってもらって見たら、先生の手控えに「アメリカ人所有」と記してあるだけで写真も日本国内に全く残っていなかった絵でした。
たまたまその絵の下絵をもらっていましたから、見比べて「同じ絵だ。間違いなく平山先生の絵だ」とわかり、「売ってくれないだろうか」と交渉しました。そのときは、「これはいい絵だから俺が持っておくよ」と相手の方が言ったのですが、おそらく、リーマンショックなどいろいろあったのでしょうね。一昨年の夏に「まだ興味があるか。故郷にある美術館に返すのが筋だと思うので、まずあなたのところに連絡をした。ぜひ買ってくれ」というメールが届きました。そこで買おうということになりました。
公金で購入することになりますから、まずどういう人が売ろうとしているのかを明らかにしなくてはいけません。調べると、古美術商としてアメリカの東海岸で絨毯を主に扱っている方でした。その頃、平山郁夫先生はまだご存命だったのですが、その人は、現存の作家だと思っていなかったようです。

山木:
そうなのですか?

別府:
平山先生は作品の制作年を元号で書かれるので、昭和32年を1932年だと思い、亡くなっている人だと思っていたみたいです。価格はそれほど高くありませんでした。本当に「瓢箪から駒」のようなものでしたね。

山木:
良かったですね。運命が導いてくれたような購入の道筋ですね。
展示では、下絵と本画が左右並べて掲げてありましたが非常に効果的ですね。

別府:
実は下絵だけでなく、スケッチもあります。二人のおじいさんだけで20数枚のスケッチが残っていて、手に持っているキセルや、たばこが入っている箱などを描いたスケッチも全部残っています。平山先生というのは、あまりものを捨てなかった人なのだと思います。本画がアメリカから戻ってきたときには、同じ時に描かれたスケッチ48点と下絵と一緒に展示しました。

山木:
モデルになった二人の漁夫のお子さんやお孫さんが絵をご覧になったと先ほど館長から聞いたのですが、その時の様子を良かったら教えてください。

館長:
一目瞭然でした。お孫さんも雰囲気がよく似ていますし、息子さんはお父さんそっくりでした。

別府:
その方々が子どもの時に描かれた絵を見て、「これは俺だ!」と言われていました。

山木:
そうですか。喜ばれたでしょう?

館長:
はい。写真とは全然違いますので。

山木:
そのことは地元でニュースになったのですか。

別府:
平山先生がお亡くなりになられたという時期でしたから、なおさらニュースバリューがあったのですね。NHKの国際ニュースにもなりました。
それにしても、本当によく帰ってきたものだと思います。他にも1点だけ、「漁夫」と同じ昭和33年の院展に出品した絵で、図柄のわからない絵があるのですが、それもアメリカの人が買っていったらしいのです。

山木:
その絵の下図はあるのですか。

別府:
いえ、下図も本画もありません。

山木:
それ以外の絵はどこに収蔵されているかすべて把握されているのですか。

別府:
そんなことはありません。わからないことばかりです。

山木:
研究の道のりは遠い、というわけですね。

別府:
遠いですよ。感覚的に言えば、作品が動くときに、潜水艦がひょいと出るような感じで出てきます。そのときにうまく紐をつけないと。

山木:
そうしないと、コレクションが充実しないわけですね。

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