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せとうち美術館紀行 第9回 東山魁夷せとうち美術館

色彩豊かな風景画に酔う

瀬戸大橋を望む地に立つ東山魁夷せとうち美術館は、日本を代表する風景画家・東山魁夷の版画作品を中心に所蔵する美術館です。作品と調和した建物をはじめ、東山魁夷のルーツとなる櫃石島や瀬戸内の美しい風景を望め、そこにいるだけで安らぎや癒しを感じることができます。

外観

シンプルでありながらも温もりを感じさせる外観。外壁のスレート石は一枚一枚表情が異なり、配列にまでこだわっているという。

ラウンジ

ラウンジ
ラウンジでは開館を記念してつくられたお菓子「あまも」を抹茶セットでいただける。磯の香りの青のりを練り込んだ皮と塩餡が絶妙

ミュージアムショップ

ミュージアムショップ
一筆箋やマグカップなどのミュージアムグッズが並ぶ。すっきりとした印象を重視し、エントランス側からは見えない場所にあるのでお見逃しなく

東山魁夷せとうち美術館 詳細はこちら

東山魁夷せとうち美術館に関しての対談1

■出席者

鳴門教育大学大学院教授 山木朝彦さん(以下山木)
東山魁夷せとうち美術館館長 東山 敏昭さん(以下館長)
同館学芸員 北地 直子さん(以下北地)

対談イメージ

■対談日

2012年2月10日(金)

祖父の出身地を望む場所につくられた美術館

山木:
最初に、東山魁夷せとうち美術館と東山魁夷さんの結びつきについてお伺いしたいと思います。事前にお伺いしたところでは、魁夷さんのおじいさまがこの瀬戸の島のお生まれだったということですが、このあたりについて教えていただけますか。

館長:
魁夷さんのおじいさんは、瀬戸大橋の一番岡山県よりの櫃石島というところの出身です。櫃石島は最盛期の頃は600人ぐらいいましたが、現在は240人ぐらい、民家は100軒あまりだと思います。主に漁業で生計をたてていいます。 魁夷さんのおじいさんは、ペリーが浦賀にやってきた1853年より少し後、明治に入る10年あまり前に櫃石島を飛び出して、江戸に出ます。そして榎本武揚と巡り会い、函館五稜郭の戦いにお伴します。明治の頃には東京の築地、品川あたりの膨大な土地を所有していたようです。魁夷さんは横浜で生まれましたけれども、本籍は品川にあったんですね。

山木:
おじいさんは、どのような人だったのですか。

対談イメージ

館長:
回船業、船宿で財を成しました。その後、横浜に移り、そこで魁夷さんが生まれました。それからさらに神戸に移り、魁夷さんは幼少期は神戸で過ごしました。 実は、魁夷さんのおじいさんが、島を出たのは40歳近くなってからのことなんです。このあたりの島(塩飽諸島)は明治維新や幕末の頃、日本の海軍を起こすその礎になった人たちが水夫としてたくさん出ていて、遣米使節の咸臨丸にも多くが乗船しています。長崎の海軍伝習所にも、この島の人たちが誘われてたくさん出ております。当時の島の人たちは咸臨丸、開陽丸、観光丸などいろんな船に水夫として乗っていました。

魁夷さんのおじいさんは櫃石島の名家の長男だったわけですが、吉田松陰と同じような心境で、「日本がこの先どうなるのか」「自分は世に埋もれて過ごしてしまうわけにはいかない」と、島を飛び出すわけです。今の時代と違い、長男が家を飛び出すというのは大変なことですから勘当され、結局、東山家はつぶれてしまいます。おじいさんは江戸の方で財をなし、明治24年に亡くなっていますが、一度も島には帰れていません。東山家ではおじいさんが亡くなった後に肖像画を描いてもらっており、それに榎本武揚が「この人の心を知っているのは唯一私だけなんだ」という意味の漢詩をしたためております。それを東山家は家宝として大事にし、魁夷さんが昭和15年に奥さんと結婚して、新居が空襲で焼けて全部亡くなった時も持ち歩いて疎開したそうです。その肖像画は現在、私どもの方に寄贈してくださっています。

山木:
東山魁夷さんは、おじいさんを思慕したり、尊敬したりするようなところがあったんですか。

館長:
おじいさんは亡くなっていましたので、両親がおじいさんのように育ってほしいと願い、魁夷さんにおじいさんと同じ名前をつけました。魁夷さんの本名は新吉といいます。そんなことから魁夷さんの心の片隅には、この櫃石島が先祖の地、ルーツの地であるというのがあったのだろうと思います。

山木:
東山魁夷さんの本名は新吉さんなんですね。それはおじいさんと同じ名前で、お父様が自分のお父さんにあやかってほしいということで子どもにつけたわけですね。

館長:
そうです。そのひとつの表れが留学です。おじいさんは幕末に江戸へ飛び出した。魁夷さんも東京美術学校を出て、本来であれば絵の勉強をするということでパリやイタリアへ留学するのですが、ドイツへ留学したんですね。新しい道を切り開く大きな夢をもったのです。

山木:
ユニークな道を歩むというスピリットを受け継いでいるのですね。

ルーツの櫃石島を描いた唯一の作品《暮潮》

山木:
もう一つこの美術館と東山魁夷さんを直接結びつけるものとして、《暮潮》という作品があるそうですね。この作品の原画をお持ちだとうかがったのですが、制作を巡るプロセスやエピソードを教えていただけますか。

館長:
本画の作品そのものは東京の国立近代美術館が所蔵しています。 《暮潮》は昭和34年の日展出品作で、向いの岡山県の鷲羽山から櫃石島を描いた作品です。櫃石島を描いた作品で残っているのは、唯一この1点だけです。魁夷さんは海の色がどうしても自分の思う色が出せなかったと語られています。島の全体を描くのではなく、一部を切り取った造形的な作品です。魁夷さんは昭和25年の日展出品作の《道》から10年間ぐらいは非常に造形的な作品にチャレンジした時代があり、その頃の作品です。ですから島の人が見ても、これが櫃石島とはわかりません。本画を製作するにあたってスケッチを描きますが、当館で持っているのはそのスケッチです。このスケッチは小さな作品ですが、海に小舟が一艘描かれていて、海の色も本画の《暮潮》よりももう少し温かい作品になっていて、自然を見たまま描いてあります。

対談イメージ

北地:
本画のタイトルは《暮潮》ですが、スケッチのタイトルは《朝の内海》といいます。こちらは朝日のピンク色がかった海を描いています。魁夷さんは《暮潮》を描くために何回か瀬戸内を訪れていますし、瀬戸内独特のエメラルドグリーンの海を見て育っています。青い海というのが瀬戸内の海なんですが、《暮潮》ではあえて青い海を描いていない、ほとんどモノトーンに近いんです。 実はこれに関して、留学から帰ってくるときのエピソードがあります。当時は船でドイツからいろんなところに寄ってこの瀬戸内海を通って帰ってくるんですね。そのときに、魁夷さんは瀬戸内の小島がいっぱい浮かんでいる穏やかな風景を見て、「日本に帰ってきたなぁ。眠くなるみたいですね」と言ったのです。すると船乗りさんが、「いやいやとんでもない。ここは潮の流れが速くて、船乗りにとっては気を抜けないところです」と言ったのです。

館長:
「海は時と場合によっては大変な危険なときもある」という記憶が、《暮潮》を描いたときに残っていたんですね。《暮潮》は暮れゆく海なんですよ。一方で、当館で所蔵している《朝の内海》は夜明け。明るさが違います。そこには画家の心の奥深い思いが込められています。

山木:
《暮潮》のスケッチはたまに展示されることはありますか。

館長:
あります。去年、《暮潮》の一筆箋もつくりました。

山木:
こちらの美術館の要覧と書かれたリーフレットに、東山魁夷さんが瀬戸内の海を背景に小高い丘に座っている写真が載っています。これも作品をつくるときの写真ですか。

北地:
そのときもスケッチをされたかもしれませんが、瀬戸大橋が作られている頃なので、《暮潮》の作品のためではありません。

山木:
ということは逆に言えば、たびたびお越しになっていたということですか。

対談イメージ

館長:
昔、《暮潮》を制作するときにこの下の浜辺とか、いろんなところでスケッチを描いたわけです。おそらく昭和53年に瀬戸大橋の工事が始まって立ち上がっていく頃に再度訪れて、当時、「ここでもスケッチを描いたなぁ」という思い出の場所で写真を撮ってもらっているのだと思います。

北地:
実は、魁夷さんが櫃石島にわたったのは数少ないんです。気持ちのうえでなかなか気軽に訪れられなかった。そういうことを書かれた文章があったように思います。

山木:
瀬戸大橋のお話が出たのでうかがいたいのですが、あの橋の色を見ていたら東山魁夷さんの作品の淡い色調を思い浮かべました。橋の色の選択にあたって東山さんが提案をされたということですが。

館長:
瀬戸大橋を建設するにあたって、検討委員会の委員の一人として魁夷さんが選ばれ、議論を重ねてきたようです。その中で魁夷さんは、ご自身のルーツである瀬戸内のこの地にあのような巨大な工作物はできればつくらないでほしいと考えておられたようです。でも世紀の大事業ということでできてしまう。それならばせめて瀬戸内の島や海、空といった環境に溶け込むようにと、ライトグレーの色を提案しました。その後、委員を退いた後に、ライトグレーの色が採用されて現在使用されているというわけです。

山木:
橋によっては橋自体が存在を主張しているような色もありますが、瀬戸大橋はすばらしく美しいですね。空と相まって自然の緑や海の青が生きています。

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