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情報誌「瀬戸マーレ」

うみかぜ紀行

ひとり道・こころ道

玉岡かおる・文

瀬戸内では、春は海からやってくる、と以前にも書いた。海の色、島の色がパステルカラーにゆるんでいき、視覚にかぎらず味覚でも、いかなごに始まる海の幸が、次々、旬を告げていく。

そしてもう一つ、私には季節を開く鍵がある。海の春は、戦争中の造船所で若い命を落とした伯父の命日によって呼び覚まされる。

もうずいぶん昔に書いた『をんな紋 あふれやまぬ川』(角川書店)という作品の中に登場する造船技師は、その人がモデルだ。私の母親の、すぐ上の兄にあたる。

海運国日本の将来を担う才能となるべく横浜工専(現横浜国大)に学んで三井造船に入り、夢は、世界に乗り出す巨大な豪華客船を瀬戸内の海に浮かべることだったとか。軍国化に傾く時代というのに、戦艦ではなかったところがこの人の穏やかさを物語っている。

進水式には、妹である母を呼んで、晴れの式典のくす玉を割らせてあげよう、と約束していたそうだ。女は三歩下がって歩けという世にあって、ずいぶんほほえましい話だが、 これは十九世紀にイギリスの皇太子ジョージ4世が定めたらしく、男たちが戦争に行くための軍艦でさえ、進水式には女性が赤ワインのボトルを船にぶつけて割るのが慣例という。そんな話を、少女だった母は、兄からうっとり聞いたにちがいない。

しかし夢は叶わず、戦争が深刻化するに従い、伯父も戦争のための船を設計させられるようになっていく。軍事機密が優先する非人間的な作戦の中で、健康を損ね、命を落とすのは、けっして珍しい悲劇ではなかった。

恋も知らない青年技師のファーストレディであった妹が、そのとき流した涙は海と同じだ。冬に覆われ、約束のくす玉はその日から記憶の中で永遠に閉ざされたままになった。

母が亡くなって久しく、また小説も書き上げたというのに、その風景は今も色あせない。

ゆるやかにくねる海岸線、入り組んだ湾の奥に停泊する船。造船所が生まれたわけがうなずける穏やかな海だ。 そして、パステルカラーにかすむ海に浮かんだ船を見るたび、今を生きる私の中で、くす玉は割れる。 色とりどりの花と風船、紙吹雪。かなわなかった夢を、明日へ、未来へ、つないではじけ、そして春を、あたりに充満させるのだ。

PROFILE

玉岡かおる
作家。兵庫県在住。1989年、神戸文学賞受賞作『夢食い魚のブルー・グッドバイ』(新潮社)でデビュー。著書多数の中、『お家さん』(新潮社)で第25回織田作之助賞。文筆のかたわら、テレビコメンテーター、ラジオパーソナリティなどでも活躍。
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