海のない町で生まれた私だが、カレンダーが夏を示すと、涼をイメージするのに、きまって思い出される水辺がある。
もっとも、私の水辺は、川である。町を流れるささやかな川だが、毎年七月一日、子供心にも盛大な「川開き」が行われたものだ。
大勢の人出、夜店の灯り。やがて花火が上がって、町は一気に夏の到来となる。
川ではもちろんよく遊んだ。魚や蟹を採った思い出は言うまでもなく、大胆になった弟が深いところに進んで、あわや溺れそうになった笑い話も。川は、遊びと教訓に満ちた、もっともゆたかなステージだった気がする。
ところが昭和四十年代以降、川は治水や利水といった名目で存在感を変えられていった。ゆたかな川の水位が奪われると同時に、汚くて危険だから川に行ってはいけないということになったのだ。そして、もう長いこと、川に行くことなどなくなっていた。
なのに夏が始まるこの季節になると、子供の頃の川の景色を思い出すのはなぜだろう。
川面を渡る風のそよぎ、夕日にきらきら反射する流れ。そこには鳥たちの姿があって、群れなすトンボや、跳ねる魚のたてる水音など、決して静止画でない、音や匂いもいっしょに立ち現れる。それは、遠く幼いあの日に、川と仲良しだった記憶がきちんとはめ込まれているからにちがいない。
うれしいことに、それは私一人の感覚ではなかったようだ。近年、川の整備のやりかたも、環境重視に変わってきた。みんなが、人工ではない自然の装置の中で生きる意味を思い出したおかげだろう。
人が自然の一部である限り、それはずっと消えない記憶。カレンダー上のイベントでなく、身体に刻んだ川開きが、こんなふうに涼やかに、ずっと巡ってくるのを願いたい。