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情報誌「瀬戸マーレ」

うみかぜ紀行

これから行く旅、始める旅

玉岡かおる・文

文楽にハマったのは、大阪に仕事場を持っていた時のこと。せっかく近くに国立文楽劇場があるのだからと、友人に誘われ、毎公演、通い出したのがその背景だ。

〝場〟がある、というのは大事なことで、劇場がそこになければ、何も演じることはできないし人が集まることもない。つまり、人の歴史に何の影響も与えることはないのだ。

だが現実として劇場では、時代や時間をかるがる越えて、違う人生、違う世界が待っている。しかも、驚くべき人間の技で人形たちに命を吹き込み、今の自分に通じる人間の、泣き笑いや愛憎まで、格調高く演じてみせる。

つまり劇場は、それまで存在しなかった世界の扉を開いて案内する、心の旅のステーションでもあるわけだ。

文楽世界へ旅立つ前は、劇場周辺をうろうろして界隈の空気を味わったり、食べたり買ったり、観劇以外のおたのしみをみつけられるのも付録の要素。まして遠くにあって簡単に行けそうもない劇場なら、旅ごころはいっそうふくらんでいく。いっそ日常をオフにして、泊まりの旅にしてしまおうか、なんてことになれば、思い出深い本物の旅の始まりだ。

ということで、まだ行っていない旅を語ることになるのだが、もっか、私のあこがれは瀬戸内を越えて行く愛媛県の内子座への旅。

大正時代に地元有志によって建てられた演芸小屋は、文楽をいつでも身近に楽しみたいとの庶民の熱の結晶である。おそらく昔は全国どこにでもこういう小屋が存在しただろう。その原動力は、ただ、おもしろいから、楽しいから、それに尽きた。そう、人生とは、ひたすら歓び、幸せになることであっていい。

何千人が見に来たとか、チケットを何百万円売り上げたとか、結果をとかく数字で計られがちな現代では、そりゃあ何をやっても人間の数が多い首都圏には負ける。しかし、おもしろさや感動を、数で計れるはずがないのだ。

先人たちの心の遺産、文楽。いつかきっと訪れる旅は、当面、私が見続ける夢である。

PROFILE

玉岡かおる
作家。兵庫県在住。1989年、神戸文学賞受賞作『夢食い魚のブルー・グッドバイ』(新潮社)でデビュー。著書多数の中、『お家さん』(新潮社)で第25回織田作之助賞。文筆のかたわら、テレビコメンテーター、ラジオパーソナリティなどでも活躍。
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