早起きは三文の得、とは言うけれど、夜型の私には睡眠不足をもたらす罰ゲーム、としか言えそうにない。それでも数少ない早起きの記憶は、たしかに、いいことあった、得をした、と納得できることがしばしばあった。
それは海辺の町へ旅した時だ。
誰もいない波打ち際、太陽や潮風や波の音、そしてそれらと矛盾なく一体化している自分。五感に押し寄せる海は、いつもの自分と違ったものをとらえさせる。
砂の上で光っているボタン電池や、風に転がされていく空のペットボトル、潮臭い魚の死骸や、どういうわけでか片方だけの長靴。そんなもの、ふだんなら町の暮らしの中ではしげしげと眺めたりはしないだろう。なのに、海辺では、視界に入る、とびこんでくる。
もちろん、もっときれいなものもたくさんみつかる。巻き貝、時にタカラガイなんて。変な石、それもまさか何かの化石だったり、あるいはクジラの耳の骨だったり。ゴミかもしれないけれどきれいな色のガラスとか、昔の陶器や土器のかけらとか。
おそらく、海辺に来ると、自分がとても身軽でシンプルになっているからだろう。情報が多すぎる場所では目にも留まらないものたちが、ここでは一つ一つ意味を持って、ここの浜辺にたどりつくまでの物語や歴史なんかを、訊けば一心に語りかけてくれる。
島崎藤村はそうやって椰子の実をみつけて名詩を残したし、流木を集めてアート作品にした現代美術の芸術家もいる。浜辺は、誰が用意したのでもない宝さがしの会場といえるかもしれない。
だけど、いけない、ものほしそうな目で浜辺を歩いては。
海辺では、自分も空っぽの貝殻になっている。だから、本当にいるもの、いらないものが見えてくる。ゴミか、宝か、値打ちを決められるのは自分だけ。ふだんは目もくれなかったささやかなものに心惹かれる、そういう感性をとりもどしたことこそ収穫なのだ。
それには、世界に自分しかいないような、静かな朝の浜辺がいちばん。遅くやってきた人より先にそこを制した気分になれる。
考えていたら海に行きたくなった。三文の得は、時々海辺に帰ることかもしれない。