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夢の架け橋ヒストリー
本州四国連絡橋公団発足50周年

夢の架け橋ヒストリー

悲願の構想から100年以上の時を経て、本州と四国を結ぶ本州四国連絡橋3ルートが完成しました。
大切な橋を200年以上の長期にわたって利用できるように、
JB本四高速は日々維持管理を行っています。
幾多の困難を乗り越え、人々の熱意と知恵と技術を結集して出来上がった
一大プロジェクトの歩みをシリーズで振り返ります。

世紀を超えて人々を支え、
受け継がれる橋へ

瀬戸内海は、白砂青松の海岸線と大小無数の島が点在する美しいエリア。しかし濃霧や強風がたびたび発生して船の行く手を阻み、多島海特有の浅瀬や暗礁、急潮流が原因で海難事故が多発していた。それゆえに四国は本州からそれほど離れていないにもかかわらず取り残されていた。

「瀬戸内海に橋を架ければ、風波の心配なく行き来できる」

人々が昔から抱いていた思いを具体的に提案したのは、明治22(1889)年、香川県議会議員・大久保諶之丞だった。当時は夢の話にすぎなかったが、昭和30年代に入って大きく動き出した。そのきっかけが、濃霧で修学旅行生ら168人が犠牲となった国鉄宇高連絡船「紫雲丸」の沈没事故である。世間に与えた衝撃は大きく、建設省と国鉄が架橋建設に向けて本格的に調査を開始。技術的に実現可能か、ルートはどうするかなどが検討された。

その結果、3ルートで建設されることが決定。昭和45(1970)年には本州四国連絡橋公団が発足した。いよいよ着工と意気込んだ矢先に石油ショックが起き、着工延期になってしまった。落胆は大きかったが、逆にその期間を好機ととらえ、技術開発に努めたことで、長大橋建設への自信を深めることができた。

昭和63(1988)年、3ルートで最初に全線開通した瀬戸大橋の建設ではその技術力が発揮された。

年表

新技術が数多く誕生
長大橋建設の礎を築いた瀬戸大橋

瀬戸大橋は、岡山県の児島から香川県の坂出まで島伝いに結ぶ6つの巨大な橋の総称である。吊橋、斜張橋、トラス橋といろいろな形状の橋があり、架ける場所の地形、地質、景観によって最適な構造が選ばれている。橋は道路だけでなく鉄道も通す2層構造で、この規模でつくるのは世界でも経験したことがないもの。それだけに乗り越えなければいけない課題が多く、新たな技術が開発された。

なかでも難関は、橋を支えるための土台建設。瀬戸大橋には海中基礎が11基あり、最も深いところで50mもある。約14階建てビルに相当する巨大な土台をどうやって海中に築けばいいのか。しかもこの海域は「海の銀座」といわれるほど船舶が行き交う国際航路で、好漁場でもある。いかに影響を与えないように確実に頑丈な土台を築くことができるか。度重なる議論と調査、実験が繰り返された。

技術力と人々の情熱で困難を突破

「よし、この方法ならできる」

確信をもって採用されたのは、設置ケーソン工法だ。あらかじめ工場で組み立てた鋼製の箱(ケーソン)を船で引いて海中に沈め、そこに粗骨材を詰め、隙間にモルタルを注入して固めるというもの。モルタルの注入は何昼夜もかかり、途切れると継ぎ目ができて弱くなってしまう。連続注入が必須で、モルタルを供給する船の開発が工事を左右するといっても過言ではなかった。

そうして誕生したのが、海上でモルタルを製造する世界最大のモルタルプラント船「世紀」だ。しかしすべての作業が順調だったわけではない。予期せぬトラブルも起きた。寒波による異常低温でモルタルを注入するホースが凍った時はパニックに陥った。「湯を沸かせ!」「やかんをもってこい!」と大声が飛び交い、作業員総出で凍ったホースを溶かし、なんとか作業を再開。しかし悪いことは続いた。悪天候で材料を補給する船が近づけない。もしモルタルが切れたら、即工事は失敗となる。焦りのなかで知恵を絞り出し、注入スピードを遅くして材料切れを防いだ。海上工事は天候との戦いでもある。霧も難敵で、視界が遮られると作業を中断せざるを得ない。気象を予測し、作業工程を立てることが重要だった。

技術力だけではだめ、人々の熱い思いと団結力があったからこそ瀬戸大橋を完成させることができた。瀬戸大橋で培った技術は次の本四連絡橋建設に継承され、明石海峡大橋ではより難しい技術に挑戦することとなった。

瀬戸内海は春先から夏にかけて霧が発生しやすく、航行船舶にとって影響が大きい。橋は海面からはるか高い位置にあるため霧が薄くなり、道路や鉄道は影響を受けにくい。
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