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情報誌「瀬戸マーレ」

うみかぜ紀行

人間の器を大きく造る土地

玉岡かおる・文

土佐といえば龍馬があまりにも有名だが、私にはもう一人、欠かすことの出来ない歴史上の人物がいる。拙著『お家さん』で書いた鈴木商店の大番頭、金子直吉だ。

神戸の小さな砂糖問屋だった鈴木を、日本を三分するほどの巨大商店に育て上げ、第一次大戦下ではヨーロッパで一番有名なアジア商社として名を馳せさせた男。

今なお経済界にファンが絶えない彼も、四国の山河に抱かれて育ったのだ。

育ちはたいして恵まれず、幼い頃には屑拾い、長じては質屋に丁稚奉公に出されて家計を助けた。学校には通えなかったが、店番をしながら質草の書籍を読みふけり、博覧強記の知識を身につける。そう、彼は四国の陸の果てから、世界や宇宙をわがものにしたのだ。

主人は彼の才を惜しみ、ここで埋もれさせるよりは天下のためにと、出入りの商人に紹介を託す。それが運命の道だった。

当時、岩崎弥太郎の海運事業で、神戸と高知に定期航路が開かれていた。今のように便利な橋がない時代、それが唯一の道だった。

船上の彼は、成功するまで決して帰らないと故郷の山河に誓ったはずだ。なのに、勤めがつらくて逃げて帰った若かりし日がある。そのとき土佐の温かな風や陽光は、どのように彼を迎えただろう。

心癒やされ、ふたたびビジネスの最前線にもどった彼は、その後、母親の葬儀以外は戻らなかった。至高の志をもって産業を興し、一企業の営利を越えて国益のために働く日々は、帰郷に寸暇も割けなかったのだ。

しかし彼の胸にはいつでも四国へつながる道が見えただろう。人間の器のモジュールをひとまわりもふたまわりも大きくした天地。偉大な男がどのようにして造られるか、一度じっくり滞在してみればわかるだろうか。

PROFILE

玉岡かおる
作家。兵庫県在住。1989年、神戸文学賞受賞作『夢食い魚のブルー・グッドバイ』(新潮社)でデビュー。著書多数の中、『お家さん』(新潮社)で第25回織田作之助賞。文筆のかたわら、テレビコメンテーター、ラジオパーソナリティなどでも活躍。
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