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うみかぜ紀行

サイクリングの聖地は海の上

玉岡かおる・文

ふだんは運動なんて何一つやっていない私だが、もしも何かやるなら、自転車に乗りたいなあと思い始めた。

もちろん、子供や買い物籠を前後に乗せたママチャリではない。無駄なものが何一つなく省略されて、細い線と輪だけで構成された、あの輝くようなスポーツ用自転車のことだ。

だが動機は少々、怪しい。たとえばマラソンだと自分の体のみで勝負だし、あんな長距離、私には無理。ランナーの皆様には叱られるが、ゴールで倒れ込むほど苦しそうなのに、いったい何が楽しいんだかわからない。

もちろん自転車だって、ものすごいスプリント力がいる過酷なスポーツだとは知っている。だが記録を競わないなら、人間が走る以上の長距離を無理なく走れて、こんな楽しいスポーツ、他にないように思える。

「あなたもやりなさいよ、楽しいよ」
勧められてかなりその気になったのは、昨年、マレーシアのペナン島で開催されたワールドマスターズゲームズを観戦した時のこと。

三十代から七十五歳+まで、年齢ごとに区分されたエントリー方法だから、市民レベルでも無理なく参加が可能。公式大会でありながら、競うよりも参加して楽しむことができる、垣根の低い世界大会なのである。

「次は日本を、走りたいわ!」
照り返す日ざしの下で、たどたどしい日本語でそう言い、握手してくれたのは、サイクリストのユンさんだった。自転車競技ロードレース六十歳以上、という部門で入賞し、軽々と愛車を持ち上げた小柄な台湾人女性だ。二年後に開催される関西大会にももちろん参加するという。競技会場は鳥取の倉吉市だが、彼女がその後ぜひ走りたいのは別の場所。

「サイクリングの聖地があるんでしょ?」
言われて答えられないなんて、日本人として無念。すぐに、サイクリストの友人に訊いてみた。

それは、瀬戸内しまなみ海道にある「サイクリングロード」。日本初の、海峡を横断できる自転車道のことだった。
「走っている気分は最高! 眼下には海峡の海の流れが見えるし、島々は美しいし」 「仲間と走るから途中で補給休憩。レストランやアイスクリーム屋にも立ち寄って」

ああ、聞くだけで気持ちよさそうだ。

距離は七十㎞。高低差もさほどなく、ふだんから鍛えている彼らには「しんどくもない」運動らしい。自転車を持ってのアクセスも、輪行バッグに入れて今治まで青春18切符で行ったり、新幹線なら宅急便で送っちゃうとか。尾道まで車に積んで行けばバイク専用のバスで尾道から今治まで移動できるらしい。宿泊も、尾道には自転車を部屋の壁に下げられる専用のホテルがあって、人気という。

なるほど聖地。さまざま便利なおもてなしが用意されているんだなぁ。うーん、どうしよう、自転車をやらない理由がなくなってきた。

こうなれば二年後のワールドマスターズゲームズ関西に、初心者マークで参加してみようか。まずは海風の中、しまなみを走ってから。

挿絵

PROFILE

玉岡かおる
作家。兵庫県在住。1989年、神戸文学賞受賞作『夢食い魚のブルー・グッドバイ』(新潮社)でデビュー。著書多数の中、『お家さん』(新潮社)で第25回織田作之助賞。文筆のかたわら、テレビコメンテーター、ラジオパーソナリティなどでも活躍。