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未来に架かった橋を越えて

玉岡かおる・文

「岡山県側から撮影した瀬戸大橋建設前の風景」
昭和52年頃撮影。この美しい多島海をまたいで大橋がかかる未来は、もう、歴史の一つになった。

ことしの元旦は、瀬戸内海の海の上で朝日を見た。船ではない、本州から四国へ、いくつもの橋を走る愛車の窓からだった。

もっとも初日の出とはいかず、兵庫県にある我が家を出たのが午前八時だったから、山陽道を走り瀬戸内を渡る橋に出た時には、日はすでに高く島々の上にあった。それでも朝日は透き通るような輝きを放ち、新年の朝の海峡をすがすがしく彩って目に灼きついた。

こんな景色は、かつては海の上を行く船からしか望めなかったはずで、陸路から眺められるなど信じられないことであろう。

そう、私たちは、ここに橋があればと切望した昔の人々からすれば、夢の未来を生きている。

たとえばもしもここに、かつて瀬戸内を支配したといわれる海賊たちがタイムスリップしてきたらどうだろう。

この海域は多島海と言われるだけに海底の地形も複雑で潮流も激しく、航行するのが難しかった。それゆえ航海技術の高さを買われ、時の権力者たちから重用されたのが海賊という人々だった。

だが近代技術の粋を集めた瀬戸内の橋は、やすやすと人や車を運んでいく。しかも安全に、大量に、短い時間で。その巨大さと長さとに、きっと彼らは目を見張るだろう。
「それにしても、何の用で海を渡るのだ?」

もしも彼らがそう尋ねたら、
「はい。ちょっと親戚のうちに、新年のご挨拶に行ってきます」

ありのままにそう答えるが、彼らは信じないかもしれない。まして、夕方までには兵庫県まで日帰りします、だなどと付け加えたら、唖然とするに違いない。しかも、そんな橋が、本州と四国の間に三つも架かっていると知ったなら――。

まず一つめが、元旦の日、私が通過していったしまなみ海道。いちばん西にあり、広島県の尾道から生口島、大三島などを九つもの橋でつなぎ、愛媛県の今治に達する。

真ん中にあるのは瀬戸大橋。岡山県から香川県に向けて、六つの橋がかかっている。

そして兵庫県と徳島県をつなぐのは神戸淡路鳴門自動車道。明石海峡大橋と大鳴門橋とが、淡路島を縦貫して本州と四国をつなぐ。

後の二つは、全線がつながり一本となってから今年がそれぞれ三十五年、二十五年の記念の年となるという。もうそんなになるか、という感慨とともに、それくらいの年月だったらタイムスリップと言わずとも、じゅうぶん当時の記憶があることに気づく。私が子供の頃には「夢の架け橋」と言われたプロジェクトが、大人になるに従い、次々と現実のものになるのを、確実にこの目で見てきたからだ。

中でも私にとって身近なのは明石海峡大橋だ。淡路島へは、海水浴にキャンプにグルメと数え切れない思い出があるが、明石からはフェリーに乗るのが普通の行程だった。陸がいったん途切れて「海外」となるため、淡路も四国も、近くに見えていながらそこへ行くのはいつも旅気分。「ちょっと挨拶に」なんて言って日帰りする感覚にはなかったものだ。

その証拠に、大学の頃、淡路から来ている友人たちは、みんな寮に入ったり下宿したり。そして帰省が台風の前後になると、
「フェリーは出るかな。大丈夫かな」
と心配しながら、早めに下校していた。

ところが時代は変わって、うちの次女が通っていた学校では、淡路から来る同級生は親元を離れて暮らさなくても、かるがるバス通学でやってきていた。今やランドマークとなった大橋が教室から見える学校だったため、三者面談で先生から、彼女が授業中にいつも橋ばかり見て困ります、と注意され、小さくなったことも懐かしい。

ロケーションは同じでも、私と娘の時代では見える景色が違う。本州と四国の距離感も格段に違っているはずだ。慣れとは恐ろしいもので、「夢」であったものが馴染んで当たり前のものになってしまうと、もうこれがなかった時代を想起するのが難しくなる。

それでも二十五年、三十五年と、時代を刻む節目には、目を閉じ、想起してみたい。海賊にでもなった目線でタイムスリップし、「未来」の向こうで生きている自分たちを、しみじみ驚きなおしてみるのも悪くないだろう。

● PROFILE

玉岡かおる

作家。兵庫県在住。'89年、神戸文学賞受賞作『夢食い魚のブルー・グッドバイ』(新潮社)でデビュー。著書多数の中、『お家さん』(新潮社)で第25回織田作之助賞。’22年には『帆神―北前船を馳せた男・工楽松右衛門―』(新潮社)で第41回新田次郎文学賞、第15回舟橋聖一賞をW受賞。文筆のかたわら、テレビコメンテーター、ラジオパーソナリティなどでも活躍中。

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