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うみかぜ紀行

川が呼んでる気がする夕べ

玉岡かおる・文

運転免許を取ったばかりの二十歳の頃、瀬戸内沿いに走ろうという選択は、ハズレなしのドライブルートだった。ちょっと車を停めて立ち寄るだけで、明るい山影があり、晴れやかに入り組む海があり、そしてのどかな町並みがある。若い頃のことだから、誰と行ったか、今もはっきり覚えているのが我ながらすごい。(この年になると、五年前とか中途半端な記憶はすっかり忘れていることが多いのだ。)

旧閑谷学校も、そんなクリアな記憶がある場所だ。

大学を出てすぐ、私は中学校の教師をしていた。それも、政治経済、歴史の教師だ。まるで前世、というくらい遠い昔に感じるが、三十年以上前というところ。同僚の先生が誘ってくれたのだった。

晴れわたった日曜だった。山陽、という名の由来が納得できる明朗な風景の数々。運転しても、助手席にいても、うきうきした。

そして眼前に現れた旧閑谷学校の威容。今と違って情報の乏しい時代である。地元でもそんなに対外的に観光宣伝していなかったこともあり、それまで私はその存在を知らず、実際に来てみてとても感動した。

「そやろ? ええとこやろ?」

えっへん、とばかりに、彼が胸を張った。キミを褒めてるわけじゃないよ、と言いたかったが、ここへ案内してくれたのは彼だったし、私より先に知っていたというアドバンテージは小さくない。

「うん。すごい」

素直に褒めた。もちろん彼をではなく、あくまでこの歴史的遺産に対してだったが。
人と人との記憶は、去ってしまえば日に日に遠く薄れてしまうけれど、土地の記憶は人の人生より長くそこにあって、生き続ける。岡山藩の学校として多くの生徒が駆け抜けた以上に早く、私たち一時の訪問者は通り過ぎる。しかし、人や時代の変化に動じもせずに、文化遺産は呼吸し続けて今に残る。
また行ってみよう。誰と行ったか、たいして大事な記憶にならないとしても。きっと自分ひとりのいい思い出になるだろうから。

挿絵

PROFILE

玉岡かおる
作家。兵庫県在住。1989年、神戸文学賞受賞作『夢食い魚のブルー・グッドバイ』(新潮社)でデビュー。著書多数の中、『お家さん』(新潮社)で第25回織田作之助賞。文筆のかたわら、テレビコメンテーター、ラジオパーソナリティなどでも活躍。