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せとうち美術館紀行 第6回 平山郁夫美術館

平山郁夫美術館 日本画の巨星、平山郁夫の足跡を俯瞰できる美術館

平山郁夫美術館に関しての対談3

下図やスケッチから制作過程が見える

山木:
こちらの美術館では、計画的に下絵と本画を左右並べて展示されていますよね。このあたりの意図はどういう所にあるのでしょうか。ご覧になった方の印象や意見がありましたら教えてください。

別府:
普通の作家の方は下絵を見せないのですが、平山先生は「白鳥だって一生懸命水の中で足をかいている。それを見て欲しいんだ」とおっしゃっていました。「最近の若い作家は下図をちゃんと作れない人が多い。日本画の伝統として好ましからざることだ」とも。そのような平山先生のお気持ちも汲み、きちんと下図を作って絵を描いているプロセスを見ていただきたいというのが主な理由です。そういう手の内を見ることで、「おおっ」と思って下さるお客さまもいらっしゃいます。
また、平山先生の出来上がった本画は、「日本画というのは線で構成されなければいけないはずなのに、線がないじゃないか」と半可通のひとから言われます。そうではなくて、本画の下にはきっちり線が引いてあり、日本画の伝統を決して外れているものではないということを不勉強な評論家の方にちょっとアピールしたい気持ちが私の中にあります(笑い)。

山木:
なるほど。その展示を見た人の中には日本画に関心のある人も多いと思いますが、どんな印象をもっていらっしゃいますか。

別府:
「緻密に構成されながら本画を仕上げている制作過程がよくわかります」と言われる方と、「何ですか、これは」と言われる方とたしかに賛否両論です。しかし、平山先生は本画に関しては100%下図を描いている。決して思いつきで描いているわけではないことをこの展示によってわかっていただけると思います。

山木:
お坊さんの姿がたくさん描かれた「求法高僧東帰図」に関しては、一人一人のお坊さんのスケッチが膨大にあるそうですが、全部この作品にかかわるスケッチですか。

別府:
はい。現在、展示しているスケッチで半分ぐらいの数です。

山木:
あれで半分ですか?全部で何枚あるのですか。

別府:
展示しているパネルは48枚で、全部で100枚ぐらいあります。あの作品のためのスケッチというよりも、「求法高僧東帰図」は完成形であって、ここに至るまでに類似の作品が何点もあるのです。

山木:
試行錯誤されているというわけですね。そうすると構想から制作に至る時間はかなり長かった作品ですか。

別府:
そうですね。「仏教伝来」の翌年に描かれた「天山南路(夜)」という絵がありますが、それに対する「天山南路(昼)」という描きかけたものが、この作品のベースになっています。

山木:
それが「求法高僧東帰図」になったわけですね。

別府:
はい。

山木:
1961、1962年から始まって完成したのが1964年。少なくとも3、4年かかっているということですか。

別府:
そうです。類作の「天山南路(昼)」は広島県立美術館にあるのですが、これも発表されなかったものです。

山木:
すごいですね。完成した作品は、結果的にディテールを省き、シルエットを強調したものになっています。しかし、そこに至るプロセスは予想に反して克明なリアリズムですね。

別府:
はい。いろいろな類作を経た上で、たぶん「求法高僧東帰図」を仕上げるためにもう一度モデルを雇っていると思います。

山木:
二重三重に下図を作って本画に挑んでいるのですね。

別府:
そうです。残念ながらこの作品の大下図は残っていないのですが。

山木:
大量のデッサンを見ることで、鑑賞者は平山画伯の作品の作り方の謎を読み解くプロセスを鑑賞時に得られると思います。そのような展示方法は素晴らしいですね。
この美術館全体として、制作のプロセスが垣間見られるような展示になっていると感じました。例えば顔料のもととなる石を展示していたり、テーマのもととなる日記を展示していたり、平山郁夫という人間の思想や生活感をはぐくんでいる背景を全部見せてつまびらかにしている。これは、チャレンジャブルな見せ方ではないかと思います。通常の美術館は作品を展示して、それに言葉の解説を加えることが多いかと思いますが、この美術館ではデッサンを横に展示して、しっかり見せるというプロセスが印象的です。こうした工夫は、開館当時から考えられたのですか。

別府:
最初は、本画がないので代わりに下図を出すということをやらざるを得なかったわけです。それが「求法高僧東帰図」を手に入れ、そのことを先生に話すと、「あの作品を購入したのですか。では、こういうのがありますから持って行って並べて、ぜひ見てもらってください」とおっしゃっていただき、わたしたちも、先生は下図やスケッチも見てほしいのだと考えて、そういう組み立てに変わってきました。

山木:
平山郁夫ファンにとっては、美術学校に入学する前の幼少期からの記録も貴重ですし、本画だけでなく下図を見られるのも魅力です。非常に魅力的な見せ方をされていると思います。

緞帳やタペストリー用の絵を制作

山木:
大富豪である船舶王のオナシスさんのキャビンを飾ることになった原画4作品や、ホールの緞帳になっている作品もありますね。このあたりについてもお話しください。

館長:
開催中の企画展「遠い道のはじまり」のリーフレットの表紙に使っている「瀨戸曼荼羅」という作品は、昭和60年に建てられた尾道市瀬戸田町のベルカント・ホールの緞帳になっています。当時の町長さんから依頼を受けたものです。緞帳の絵は10点近く描いていて、どこにどういうものを作るのかということを聞いて、それぞれの場所にふさわしいものを描き下ろしています。今から見ると貴重なものだと思います。
「燦・瀬戸内」という作品は、母校の忠海中学の創立100年を記念してつくった緞帳の元絵で、在校生も含め街の人に見てほしいと、象徴的な風景を描いています。

山木:
やはり地域への貢献度が高いですね。
オナシスさんのお話を少しお願いします。

館長:
船に飾る絵を書いたという話は聞いたことがありますが、オナシスさんに依頼されたものかどうかはわかりません。当時の船主さんで一番有名だったのがオナシスさんでしたので。

別府:
平山先生は、日本人だったら誰でも名前を知っているギリシアの人だという言い方をされていましたね。

館長:
当時はまだ絵で食べていけるような状況ではなかったので、依頼を受ければ依頼主の図柄などの注文を聞いて描いていたようです。依頼主に気に入られるような絵ということで、あれはあれで当時の背景がわかる絵だと思います。

山木:
なるほど、そういうことですか。

現代のテクノロジーと自然の融合を描いた「しまなみ海道五十三次」

山木:
先ほど話が出ていましたが、「しまなみ海道五十三次」の話を伺えますか。

別府:
はい。広島県知事と愛媛県知事からしまなみ海道の開通に合わせて描いてくれないかという依頼があり、開通の直前にかけてバタバタと取材をしました。まだ橋が通られなかったので、船で移動しました。普段、平山先生は船の上から描いたりされないですし、もう少し時間をかけて描きたいという気持ちもおありだったのですけれど。
実は平山先生から「もう一点しまなみ海道で、今度は瀬戸田の風景を大作で描きたい」という話も伺ったことがあります。

山木:
そんなことがあったのですね。

別府:
「しまなみ海道五十三次」というシリーズは、今は尾道市と今治市になってしまいましたが、当時は島ごとに自治体が違っていて、それぞれの役場の人が自分の島の一番の見所に先生を案内して描いてもらうというコンセプトで取材をしたものです。例えば伯方島では「ここから造船所を描いてください」という要望もあり、普通では平山先生が描かないような絵が生まれたわけです。

山木:
反論するようで申し訳ないのですが、平山郁夫画伯の中には、ドキュメンタリストといっては言い過ぎかもしれませんが、いろんな国々のいろんな人々の生活の今を切り取るという動機があるのではないかという気がするのです。例えば、「平和の祈り~サラエボ戦跡」といった作品のような。その文脈から眺めることはできないでしょうか。

別府:
それはイレギュラーな絵です。類作がないですから。

山木:
しまなみ海道の橋の絵にしても、現代を象徴する日本の風景としてかなり思い入れのある描き方をされていて大作だと思います。

別府:
そうですか。

山木:
私はそういう感じがするのですけれど。

別府:
「現代最高の科学技術と自然の融合は昔から日本人が意識してきたことだ」ということは、よくおっしゃっていましたね。奈良の薬師寺の絵をたくさん描いていますが、あれも天平の1300年前のことを思えば、最高級のテクノロジーでつくられたもので、「突然現われたけれど日本の風景になじんだ姿になっているじゃないか」と。「今はしまなみ海道の橋を見ると違和感があるけれど、日本人がデザインして、日本の風土になじむように作ったものなのだから、同じような景色になっていくだろう」と言われていました。

山木:
「広島生変図」(広島県立美術館蔵)も、歴史のエポックメイキングな出来事を描いた絵ですよね。それは平山画伯の記憶の中では非常に大きな意味を持ったわけですけれども、残しておきたいという意識があったのではないでしょうか。

別府:
うーん、歴史の一瞬の場面を切り取るというよりも、重層的に時間の流れみたいなものを指向していた作家だと私は思っています。現代の絵を描いているように見えるけれど、そうではないと。先ほども言いましたが、平山先生はサービス精神が非常に旺盛な方でしたから、そうした中から生まれたものと、本人が描きたくて描いたものというのはいずれ区別されるようになってくると思います。

山木:
なるほど。ただ「天かける白い橋」などはやっぱり力作ですよね。現代のテクノロジーと自然が融合した姿を何とか残しておきたいというスピリットみたいなものを、日本を象徴する姿としてなのかもしれませんが、心から描きたかったのではないかと感じます。

別府:
確かにその場所を選んで描いたというのはそういうことだと思います。47箇所取材している中で、大作で描かれているのはそこだけですから。

なかなか描けなかった原爆の絵

山木:
「広島生変図」も平山画伯の象徴主義的な、仏教に対する思い入れが出ている絵だと思います。館長から見て、お兄さんの広島での被爆というのはかなり大きな意味を持っていると思われましたか。

館長:
そうですね。当時は中学校から少年兵として働いていて、今とは違って戦争が現実の場面としてありました。原爆が広島に落ちた8月6日はみんなと一緒に作業に出かけ、それが瞬時にして地獄になったわけです。
原爆の絵をなかなか描けなかったのは、少し立場が変われば自分がその地獄のまっ只中にいたかもしれないという思いがあったと思います。通りがかりのひとに助けてくれと言われてもどうしようもできない、助けようと思っても助けられない。そんな過酷な状況の中でともかく、北へ行って、そこで川沿いに避難してきた人たちとぶつかりながら、少しでも生家に近づこうと、こんどは東の方に歩いたわけです。
兄はその惨状を全部記憶に焼き付けながら翌日に生家に帰ってきました。ところが、こちらでは何も変わっていない。8月6日8時15分を境に、広島に入ったら地獄、こちらはそれまでと変わらぬ生活で、昨日起こったことはいったい何だったのだろうとものすごく考えたと思います。
帰ってくる途中に何も飲んだり食べたりしなかったことで体内被曝はなかったのですが、体外からずっと放射能を浴びていたので熱が出ました。1週間ぐらい意識不明で寝ていたそうです。治療することもできず、栄養を摂る以外なかったのですが、食糧難の時でも島では魚が取れましたし、田舎ですからいろいろなものが他のところよりは豊富にあり、栄養をたっぷり摂って命を長らえることができたのではないかと思います。

山木:
回復もこの恵み豊かな土地の力でできたのでしょうね。

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