ルートの選定

本州四国連絡橋の調査は、日本国有鉄道が本四淡路線(神戸・鳴門ルート)の調査に昭和30年4月着手したことにより始まりました。

1955年5月11日(昭和30年):国鉄宇高連絡船「紫雲丸」事故

その直後の昭和30年5月11日朝、修学旅行生を乗せた国鉄宇高連絡船「紫雲丸」が霧の中で「第三宇高丸」と衝突して沈没、小・中学生を含めて168人の生命が奪われるという悲惨な事故が発生しました。

この事故は、本州と四国の連絡する必要性を決定的なものとしました。

1959年4月(昭和34年):建設省が本格調査を開始

その後,昭和34年4月から建設省が道路橋 としてAルート(神戸・鳴門ルート)、Bルート(宇野・高松ルート)、Cルート(日比・高松ルート)、Dルート(児島・坂出ルー ト)及びEルート(尾道・今治ルート)の5ルートの調査を開始しました。

調査は,昭和44年5月、日本道路公団に引き継がれました。

また日本国有鉄道は、昭和35年8月の鉄道建設審議会に基づき、道路鉄道併用橋としての計画、調査を進めることとなり、本四備讃線(B、C、Dルート)の計画,調査が追加されました。

調査は,昭和39年3月、日本鉄道建設公団に引き継がれました。この間建設省と日本国有鉄道は,これらの技術的検討を土木学会に委託し、昭和42年6月土木学会本州四国連絡橋技術調査委員会から「本州四国連絡橋技術調査報告書」の答申を受けました。

この答申に基づいて建設省と運輸省は道路橋及び道路鉄道併用橋の工期工費をとりまとめ同年2月に公表しました。

なお、B・Cルートについては調査途中の段階でDルートよりも明らかに工事が技術的に困難で工事費も高くなると判断され、調査対象ルートから除外されました。